今日は、人間関係のことを書いてみようと思い立ちました。
実は前職では数多くのご相談事を承る仕事をしており、その数は1000件は下らないと思います。そのため、生きていれば誰しも時折遭遇する、【人間関係の不調和】について、思いを巡られることが多かったです。
実際にわたし自身もたくさん悩んできた方だと思います。
幼少期、両親は不仲で、母親との関係が良好だったことがわたしを健全な方向へ導いてくれたと感じているほどです。
ただ、基本的に母は父の愚痴を言っては聞かせ、わたしはそれをきいて育っているため、父だけでなく、男性全般が嫌いになっていました。父親像って、イコール男性になりがちなんですよね。
だから、母親が自分の夫をどのような人だと思い、考えているかって子供にダイレクトに伝わっていくので、結構怖いものがあると感じています。(調和している家庭はそれだけで大きな価値があります)
反対に、母親=女性全般と認識するものなので、知らず知らずのうちに色めがねをかけて、人を見、物事を見、それが正しくないがために葛藤や、苦しみを生んでいることがたくさんあります。
正しさって、実は多様にありながらも基準があり、それが「神の心」そのものであるわけですが、一般的な教育を受けただけでは「神の心」を学ぶ機会をいうものはそもそも与えられていません。自分で学ぼうとしない限り、学べないものでもあるのかなと思います。
ただ、正しさを知っても、それが、今の自分の心に照らして、どこが間違っていて、どこが正しいか照らし合わせることはもっと至難の業。ここに、人生修行の意味、智慧の目を鍛えるというひとつのテーマがあるのでしょう。生まれてきた意味ともいうべきもの。
今回は、そんな、哲学的なことに惹かれている部分を出してみようかなと思って書いてみています。大丈夫です、安心してください。小学生のころにはすでに「不思議ちゃん」呼ばわりされていたわたしなので、人と違うということは十分に自覚しています。ですが、家庭をもっても、育児に奮闘していても、美容の探求にいそしんでいたとしても、すべてがわたしのひとつの側面であることには変わりありません。わたしがただわたしであること。それだけで十分だと思うからです。
さあ、本日のお題は「自分の価値観を押し付ける母親」との葛藤を乗り越える方法です。
…もう少しつっこんで書いてみると、乗り越えた方法と表現してもいいのかなと思います。
冒頭にも書きました通り、わたしは幼少期より父親に対する不信感が強く、その分、母親との癒着は強いものがありました。そこでしか、自分の愛着が形成されなかったからです。
しかし、大人になると、、わたし自身が自分の人生についてガッツリとハンドルを握るようになり、自分で意思決定し、自分で責任をとるという生き方を好むようになりました。(これが一般的な自立だし、もともとそういうタイプ)
しかし、わたしが自分の価値観やポリシーを打ち立てれば打ち立てるほど、
母親の価値観の押し付けは激化していきました。
少し前のブログにも書きましたが、わたしは産後、いろんなこと、いろんなものが大きく変わりました。その中には、母親との人間関係も含まれていました。
この現象を一言でいうと、
母親の子離れができていないということになります。
しかし、一方で、わたし自身の心には、自分の価値観を押し付けて、わたしの意思決定を尊重してくれない母に対して、「怒り」の気持ちをもっていたんです。
なぜ怒るのか。
それは、本当は母に認めてほしいからです。
人は自分の思うようにならないと怒ります。自分の思い通りにしたいんですね。そうならないと怒りの気持ちがでます
この認めてほしいという気持ち。
これは、わたし自身がまだ、「母の愛が欲しい」という子供な心をもっているという証であり、それは実はわたし自身が「親離れが不十分であった」ということを意味していることに他なりません。
だから、母はわたしの心を映していたにすぎず、
わたし自身こそが、自分の意思を尊重してほしいという意味での、自分の価値観を受け入れて欲しいという価値観の押し付けをしていた!ということだったんです。
だから、この「自分の価値観を押し付ける母親」との葛藤の本質的なカラクリは、自分の心がまだ完全に自立できていないことを意味しており、その証拠として、「価値観を押し付ける母親」を投影(自分の心が現実にあわられること)していただけだったということです。
先ほど、産後に関係が悪化したことを書きましたが、
わたし自身が母親になったこと、母親にならせていただいたことによって、
心の自立が何倍にも爆速で進んだということが言えます
だからこそ、自分の幼稚性が表面化してきて、自立に向けて課題が明確になった
ということです。
よって、まだまだ自立半ばであったわたしがとった行動は?
「母の意思を尊重する」です。
反発しない
怒ったりしない
まずはそこから
なにか批判や指示をされるようなことがあっても、いったんはこれが母の考え方であり、価値観なのだと尊重し、感謝するようにしたのです。
その前提には、自分自身への尊重があります。
母親に認めてほしかったのはどうしてだったのか
それは自分に自信がなかったからです。
自分が自分の選択や価値観、意思決定に基づく行動に、自信がなくて内心すごく不安だったんです
だから認めてほしかったんです
自分のこと、自分が認めることができていない
これが一番の根っこでした
だから最初のステップは、
自信がない自分を、ああそうなんだわたしって自信がなくて不安なんだねって受け入れること。要は失敗が怖かったんですよね、間違ってたらどうしようって
ただそれだけです
そして何も変えようとしなくていい
自分の存在をつぶさに見つめて、自分を慈しむような気持ちになって、
失敗してもいいし、うまくできなくてもいいし、挑戦そのものが経験になり財産だと思うようにしました。
自分の凝り固まっている考え方や、追い詰めていたところ、責めていたところをすこしほぐして、ゆるめるような考え方を出していきました(地道にノートに書いていきながら、新しい考え方を適応していきました)
そうすると、自分は自分のままなのですが、自分の心の中の考え方なり、思いなりが変わっているわけです。
そうなってくるとどうなるかというと、
自信がもてなかった自分がややうすくなるというか、自信がないから認めてほしいという思いへの執着がなくなっていくんですよね。
つまり、別に認めてくれなくてもいいやって。
いつもわたしのこと批判的なことしか言わないけど、まーそれもひとつの意見だし、別にいいやって。
そこまでくると、ああお母さんってこうゆう考え方の人なんだな
確かに良い面もあるし正しい面もあるな
教えてくれたことに感謝しよう
(でもわたしは別の考えでいこうかな、そっちの方がしっくりくるんだよなー)という感じて、安らかに自分の意思を尊重できるようになりました
そうなれば、もう乗り越えたも同然。
相手は写鏡ですから、
「ああ、あなたはそういう考え方なんだね、それもいいね!頑張って!」(別人級)
と、自分を尊重した結果として相手(母親)を尊重できるようになり、葛藤した苦しみが乗り越えられたということになります。
以上が、わたしが「自分の価値観を押し付ける母親」との葛藤を乗り越えた方法でした。
価値観を押し付けていたのは、紛れもなくわたし自信であり、その心の奥には自分のことを自分で認められない自信のなさや弱さがあったということ、それを包み込んで前進したときに、変わっていったというお話でした。
立ち向かう人の心は鏡とはよくいったもので、
対女性とのトラブルや不調和がおきたときは、「母親」との関係を見直すタイミングかもしれません。苦しみや、弱さと向き合うのは結構しんどいのですが、「人生は一冊の問題集」であって、自分の問題は自分で解いていかないといけないし、実は解ける問題しか与えられていない!ということも事実。ひとつひとつ向き合うことで、その変化は小さくとも、未来は大きく変わっていくことを確信しています。
今悩んでいることのなんらかのヒントになれば幸いです。
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